AIは「美しい」を判断できるか――「それらしさ」と美的判断のあいだ:AIとプロンプト、またはヒトと書体 11

生成AIは、簡単に「それらしいもの」を作れるようになりました。美しい人物や風景、高級感のある商品写真、洗練された広告。雰囲気や用途を伝えれば、短時間でそれなりのビジュアルが何案も出てきます。

 では、AIは「それが美しいかどうか」まで判断できるのでしょうか。最近の仕事で、そんなことを考えました。


Helveticaなのに、Helveticaではなかった

 あるイベントの制作物で参加企業のロゴが必要になり、諸々の都合上、その企業のWebサイト上の画像をもとにIllustratorでトレースすることになりました。ロゴは、とてもシンプルな欧文サンセリフ体です。

 見たところ、ベースはHelvetica。実際に重ねてみると基本的な骨格はほぼ一致します。しかし細かく見ると、そのままではありませんでした。文字幅がわずかに違う。字間も単純に均等ではない。ある文字は形そのものがほんの少し変えられ、隣り合う文字とのバランスが整えられている。

 どれも派手な変更ではありません。完成したロゴだけを見て気付く人は、ほとんどいないでしょう。でも細部を追ううちに、「ああ、これはちゃんと誰かが見て、考えて、整えたんだな」とわかりました。

 私は、こういうものを見つけると、とても好感を持ちます。ほとんど気付かれない調整なのに、そこには「このままでは少し違う」と判断した誰かの痕跡が残っています。


気付いていないことと、感じていないことは違う

 もちろん、私が気付いたのは制作する側だからでもあります。では、一般の人には意味がないのでしょうか?

 そんなことはない、と私は考えます。

 人間は、目に入る情報のすべてを意識的に分析しているわけではありません。「ここの文字間が少し広い」と言えなくても、「なんとなく落ち着かない」と感じることはある。逆に、理由を説明できなくても、「なんとなくきれい」「品がある」と感じることもあるでしょう。

 料理人でなくても、おいしい料理はわかります。デザインも、たぶん同じです。
 専門家は理由を分析し、言葉にできます。でも、説明できないことと、何も知覚していないことは同じではありません。

 デザインには、誰も意識しないような小さな差の積み重ねで、誰もが感じる一つの印象を作る部分があります。


AIは「美的特徴」をよく知っている

 現在の画像生成AIは、「美しいと評価されやすいもの」の特徴をよく知っています。整った顔、調和した配色、ドラマチックな光、精細な質感。「高級感のある」「幻想的な」といった指示にも、かなり上手に応えます。

 つまりAIは、過去の膨大な画像から、人間がこれまで美しいと評価してきた特徴を抽出し、組み合わせる能力を持っています。

 では、それと「美的判断」は同じでしょうか?


「美的特徴」と「美的判断」

 左右のバランス、余白、文字の階層、色彩の調和。こうした特徴は比較的ルールにしやすく、AIもかなり評価できるでしょう。

 でも実際のデザインでは、ときどきそのルールから外れることを選びます。少し不均衡にする。ここだけ字間を詰める。色を濁らせる。整いすぎているから、あえて崩す。
 単独では「悪くした」ような変更が、全体では正解になることがあります。そして最後には、「ここはもう少し」「いや、ここまで」と止める。

 デザインには、この「止めどころ」があります。

 先ほどのHelveticaベースのロゴも、まさにそうだったのでしょう。大きく改変するのでも、そのまま使うのでもない。ほんの少し手を入れて、「これでよい」とした。
 私が感じたのは、文字の特徴そのものより、その判断だったのかもしれません。


AIに美的判断を学ばせるなら

 こうした判断もAIが学習できないとは思いません。ただ、必要なのは完成作品だけではないのではないでしょうか。

 「ここが重い」と動かす。「今度は軽すぎる」と戻す。「この色ではきれいすぎる」と濁らせる。何案か捨てて、最後に一つを残す。

 美的判断に本当に価値がありそうなのは、初稿 → 修正 → 再修正 → 完成という履歴と、なぜその変更をしたのかという判断理由ではないかと思います。これは、人間がデザインを学ぶ方法にも似ています。「なぜこれを選んだのか」と問われ続けることで、少しずつ「見るところ」が増えていく。

 AIにも、本当の意味で美的判断をさせるなら、完成品だけではなく、こうした判断の履歴が必要なのかもしれません。


AIを売る広告を、人間が一コマずつ作った

最近、この話を考えるうえで象徴的に感じたのが、AppleのM6搭載Mac miniの広告です。

 映像だけを見ると、生成AI動画で作られていても不思議ではありません。ところが制作過程が公開されると、実際には粘土などを使ったストップモーションで、人が一コマずつ物を動かして撮影していたことが話題になりました。

 面白いのは、「これを本当に人が作ったのか」という制作過程そのものが人を惹きつけたことです。AIを訴求するコンピューターを売る映像で、人間の手仕事を積み重ねる。なかなか象徴的です。

 でも、価値は手間の量だけではないと思います。一コマごとに、「ここまで動かす」「この角度がいい」という判断がある。完成画面では見えなかった選択の連続が、メイキングによって可視化される。

 私たちは作品を見るとき、完成したピクセルだけを見ているのではないのかもしれません。


既存の美を予測することと、新しい美を発見すること

 もう一つ考えたいのは、まだ誰も「美しい」と評価していないものを、美しいと見つけることができるかという問題です。

 AIは、過去の膨大なデータから「これまで人間が何を好んできたか」を学んでいます。つまり、既存の美を予測する能力は非常に高い。

 でも、デザインや芸術の歴史には、登場当初は既存の価値観から大きく外れていた例がいくらでもあります。例えばバウハウスは、新しい時代の生活と大量生産に適したデザインを模索しました。装飾を減らし、工業材料を使い、機能から形を考える。今ではモダンデザインの源流ですが、当時はまだ確立した正解ではありませんでした。

バウハウス様式のグラフィックデザイン

 つまり人間の創作には、「これまで美とされていなかったものの中に、美を見つける」働きもあります。

 過去の評価を大量に学ぶほど、AIは「多くの人が美しいと思うもの」を高精度で予測できるようになる。一方で、「まだ誰にも支持されていないもの」は統計的には外れ値です。

 もちろんAIが奇妙なものを生成することはできます。でも、奇妙なものを作ることと、「これはまだ評価されていないが、ここには価値がある」と見抜くことは同じではありません。

 私はこれを、美を発見する能力と呼びたいと思います。


「美しいもの」と「美とすること」

 美的判断には少なくとも三段階あるのかもしれません。まず、「一般的に美しく見える」という統計的な美。次に、「この目的、この場所、この相手なら、こちらがよい」という文脈の中での美。そして、「今までそう評価されていなくても、私はこれを良いと思う」という、新しい美の発見。

 生成AIは一つ目にはすでにかなり強く、二つ目にも近づいていると思います。三つ目は、まだよくわかりません。そこには「既存の基準そのものを疑う」という行為が含まれるからです。


誰にも気付かれないところで、誰かが決めている

 最初のロゴの話に戻ります。

 そのロゴを作ったデザイナーが、何を考えてHelveticaを調整したのか私は知りません。おそらく、その調整に気付く人もほとんどいないでしょう。

 それでも、その人は直した。
 そのままより、こちらのほうが良いと思ったから。

 そして何年か後、たまたまデータをトレースした別のデザイナーが、それを発見して、「ああ、ちゃんとした人が作ったんだな」と思った。

 大半の人には説明されず、手間をかけたことすら知られない。それでも、小さな判断の積み重ねが「なんとなく良い」を作っている。生成AIによって「それらしいもの」を作るコストが急速に下がっていくほど、私はむしろ、こうした誰かの判断の痕跡に強く惹かれるようになりました。

 ――AIは美しいものを作れるか?
 もう、かなり作れると思います。

 ――AIは美しいものを選べるか?
 条件を十分に与えれば、それもかなりできるようになるでしょう。

 でも、その先にはまだ、「なぜこちらを選ぶのか」「なぜここを直すのか」「なぜここで止めるのか」「そして、まだ誰も美しいと言っていないものを、なぜ美しいと思うのか」という問いがあります。
 美しさは、形の中だけにあるのではなく、それを選び取る行為の中にもある。

 佐藤雅彦氏の著作『任意の点P』序文にある「これを、美とする。」という言葉を、私はとても愛しています。
 「これは美しい」ではなく、「これを、美とする」。
 そこには、美を受け取るだけではなく、自分自身がそれを選び取る主体であることが含まれています。

 AIが美を判断する時代になったときにも、おそらく最後まで問われるのは、「何を美しいとするのかを、誰が決めるのか」なのだと思います。