ブックデザイナーの祖父江慎さんが、2026年3月15日に逝去されました。装幀、レイアウト、文字組み、展覧会、ロゴ、そしてフォント。彼が扱った領域はとても広いのですが、その中心にはいつも「文字」がありました。
今回は、祖父江慎さんと書体/フォントの関わりについて考えてみたいと思います。
ブックデザイナー・祖父江慎さんと、文字がもっと自由であるということ

セッションのテーマは「バリアブルフォント『百千鳥』徹底解説」。祖父江さんは、Adobeのプリンシパルデザイナーであり、百千鳥を手がけた西塚涼子さんとともに、この新しい日本語バリアブルフォントについて語りました。「この書体が、いかにすごいかを学んでほしい!」という祖父江さんの力強いメッセージで始まったセッションは、彼が公の場で見せてくださった、文字へのまなざしのひとつの到達点だったのかもしれません。
「正しい書体」ではなく、「その本に合う文字」を探す
祖父江慎さんの仕事としてよく知られているものに、吉田戦車さんの『伝染るんです。』、京極夏彦さんの『どすこい(仮)』、松本大洋さんの『GOGOモンスター』、恩田陸さんの『ユージニア』、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズなどがあります。ジャンルだけ見ても、漫画、小説、絵本、文芸、ビジュアルブックと幅広い仕事を手がけてきたことがわかります。
つまり祖父江さんは、ひとつの「祖父江調」を押しつけるタイプのデザイナーではありません。むしろ、本ごとに距離を精密に測っている。
読者に迫る文字。逆に、突き放す文字。やわらかく手を引く文字。不安にさせる文字。笑わせる文字。妙に落ち着かない文字。
書体には、それぞれ読者との距離感があります。
祖父江さんの文字組みは、単に「きれいに読む」ためのものではありません。本の内容、読者、紙面、物語、声、そのすべてのあいだにある距離を調整するためのものでした。
祖父江慎さんにとって、書体は「文章の声」だった
祖父江さんの文字に対する姿勢を考えるうえで特に象徴的なのが、合成フォントの使い方です。
祖父江さんはInDesignの合成フォント機能を使い、パーレンだけを別の書体にしたり、特定のかな文字や句読点だけを別の書体にしたり、同じ書体でも文字ごとに大きさを変えたりしていたことがモリサワのサイト内でも紹介されています。
普通なら、本文はこの書体、見出しはこの書体、と大きな単位で考えがちです。けれど祖父江さんの場合は、もっともっと細かい。「この文章にはこの書体」ではなく「この文章の、この“か”は、このかたちがいい」というところまで見ている。これは、かなり異常です(もちろん良い意味で)。
書体を選ぶというより、文章の声を聴いている。堅い内容なのか、やさしい文章なのか、くだらないジョークが多いのか。そうした文章の表情をもとに、文字の表情を決めていく。
重要なのは、書体が「雰囲気づけの飾り」ではないということです。
文字には、声色があります。同じ言葉でも、明朝体で組むのか、ゴシック体で組むのか、丸ゴシックで組むのか、あるいはかなだけ別の書体にするのかで、読者に届く温度は変わります。
祖父江さんは、その温度差をものすごく細かい単位で見ていた。文字を情報の入れ物としてではなく、言葉の感触そのものとして扱っていたのだと思います。
祖父江慎さんが愛した、筑紫シリーズの「濃さ」
祖父江さんと書体の関わりを考えるうえで、外せないのがフォントワークスの筑紫書体シリーズです。
筑紫書体は、書体デザイナー・藤田重信さんによって生み出された書体群です。筑紫明朝、筑紫オールド明朝、筑紫ゴシック、筑紫A丸ゴシック、筑紫B丸ゴシック、筑紫アンティーク明朝、筑紫Q明朝など、明朝・ゴシック・丸ゴシックの枠を越えて、非常に個性的なファミリーを展開しています。
筑紫書体の特徴は、ひとことで言えば「癖があるのに、品がある」ことです。
ただ整っているだけでも、奇をてらっているだけでもない。文字の骨格や線の表情に、人の手の気配や、紙面に残る湿度がある。この癖と品の両立が、祖父江さんの仕事と非常に相性がよかったのだと思います。
2024年刊行の『筑紫書体と藤田重信』には、祖父江さんと藤田さんの「筑紫対談」も収録されています。祖父江さんが筑紫書体を単なる使用者としてではなく、書体そのものの成り立ちや思想に深い関心を寄せていたことがうかがえます。

筑紫書体の面白さは、文字が「少し喋りすぎる」ところにあります。
たとえば筑紫明朝は、本文に使ってもどこかに緊張感や色気が残る。筑紫オールド明朝には、古典味ややわらかさがある一方で、現代的な輪郭があります。筑紫丸ゴシック系には、かわいらしさだけでは終わらない不思議な強さがあります。
クセのある書体は、使い方を間違えると紙面を支配してしまいますが、うまく使えば、文章の奥にある声を引き出してくれます。
祖父江さんが筑紫シリーズを愛したのは、そこに「デザイナーが文字と対話できる余地」が大きく残されていたからではないでしょうか。
ウサコズフォント――絵本のために文字を作る

祖父江さんの「本との距離感を測る精密さ」は、ときに「特定の本のためにオリジナルフォントを制作する」という形で現れました。
福音館書店のブルーナ絵本は2010年に、書体を含めてデザインが一新されました。その際に作られたのがオリジナル書体「ウサコズフォント」です。「絵本に合う既存フォントを探した」のではなく「その絵本のために文字を作った」わけです。
子どもが読む。声に出して読む。ゆっくり読む。絵といっしょに読む。親が子に読み聞かせる。読まれ方まで含めて考えると、文字はただ読めればいいわけではありません。
ブルーナの絵は非常にシンプルで、線も面も余白も強い。そこに入る日本語の文字が強すぎても弱すぎても、説明的すぎても無個性すぎてもいけない。だからこそ、ウサコズフォントには「絵本の世界の中で、文字がどう存在するか」という問いが含まれているように思います。
文字は絵の邪魔をしない。けれど、絵に従属するだけでもない。
読者の目に入り、声になり、物語のリズムになる。
これは、フォントを「本文を流し込むための道具」としてではなく、本の世界を構成する重要な要素として扱った例だと言えます。
ツルコズ――復刻ではなく、現代に使える文字へ

もうひとつ祖父江さんのフォント制作として挙げたいのが、タイプバンクの「ツルコズ」です。
「ツルコズ」は、昭和5年にカナモジカイの松坂忠則氏がデザインした「ツル5号」を、祖父江さんが復刻したかな書体です。もとの「ツル5号」は、カタカナだけで表記したときにも読みやすくなるよう、欧文のデザインを参考にした上下に凸凹のある設計が特徴でした。
興味深いのは「復刻」と言いながら、単に昔の文字をそのままなぞっているわけではないことです。
ツルコズでは、カタカナの復刻に合わせて、ひらがな・欧文・数字なども揃えてデザインされています。過去の文字の考え方を受け取りながら、現代のデザイン環境で使える書体として再構成している。ここにも、祖父江さんらしい文字への態度があります。
書体を「古い/新しい」で切るのではなく、どんな思想を持ち、どんな読みの可能性を持っているかで見る。その姿勢が、ツルコズにはよく表れていると思います。
百千鳥と、バリアブルフォント時代の文字
冒頭で触れた「百千鳥」に話を戻します。
百千鳥は、Adobe Fontsに加わった日本語バリアブルフォントです。バリアブルフォントとは、太さや幅などの軸を連続的に変化させられるフォントのことで、従来であればライト、レギュラー、ボールド、コンデンスといったように別々の書体ファイルとして用意されていた差異を、ひとつのフォントの中で滑らかに扱えるようにする技術です。

百千鳥が面白いのは、日本語の文字において、長体・平体のようなプロポーションの変化や、手書き看板的な表情を、現代のフォント技術として引き受けようとしているところです。
写植の時代には、文字は写真の技術によって伸びたり、詰まったり、にじんだりしました。DTPの時代には、文字はデジタルフォントとして管理され、安定して再現されるものになりました。そしてバリアブルフォントの時代には、文字は再び、動きや変化の可能性を持ち始めています。
前回の記事で見た石井明朝が「写植の物理に合わせて生まれた美」だとすれば、百千鳥は「デジタルの可変性に合わせて開かれた美」と言えるかもしれません。
祖父江さんは、その両方を見ていた人だったのだと思います。
過去の文字を愛するが、過去に閉じこもらない。
新しい技術を面白がる先に、どんな文字の表情が生まれるかを見る。
その姿勢が、祖父江さんの書体観のいちばん豊かなところではないでしょうか。
文字は、もっと自由で、もっと細かく、もっと楽しい
書体を選ぶとき、私たちは「明朝かゴシックか」「読みやすいか読みにくいか」「高級感があるか親しみやすいか」といった大きな分類で考えがちですが、祖父江さんの仕事は、その分類のさらに奥へ入っていきます。
この句読点は、このままでいいのか。
この「か」は、この表情でいいのか。
この絵本の文字は、子どもの声に合っているのか。
この復刻書体は、今の紙面で生きているのか。
この漢字の形を、ひとつの正解に閉じ込めていいのか。
書体とは、選んで終わりではありません。文字と文章と読者のあいだで、何度も距離を測り直すものです。祖父江慎さんは、そのことを極端なほど丁寧に、そして楽しそうに実践したデザイナーだったのだと思います。
前回、石井明朝について「文字は、情報であると同時に、美でありうる」と書きましたが、祖父江さんの仕事を見ると、そこにもう少し言葉を足したくなります。
文字は、情報である。
文字は、美である。
声であり、遊びであり、距離であり、体験である。
書体は、情報を運ぶだけの透明な器ではありません。本文も、見出しも、句読点も、かな一文字も、すべて表現の一部になる。
文字は、もっと自由でいい。
書体は、もっと細かく見ていい。
そしてデザインは、もっと楽しんでいい。
祖父江慎さんの仕事は、私たちにそう教えてくれます。
ありがとう、祖父江さん。

